鎌倉時代の道路政策
鎌倉時代の道路政策
源頼朝が鎌倉入り(1180年以降)、政治の中心となり交通網が整備されていきました。
東北や関東、中部地方と鎌倉と結ぶ鎌倉街道として、幕府の発展と共に形成されていきます。
東西南北に幹線道路が整備され、その他にも支線が作られるなど、鎌倉街道と呼ばれ「上ノ道」「中ノ道」「下ノ道」の3本の幹線道が成立していました。
多くが細長い窪地状であるという特徴を持っています。台地状や原野では両側に土手を築き、急な坂には敷石を用いることもあったようです。
当時の道路は、石畳などで整備されたものもありましたが、基本的には土で盛り上げた道路が多く、雨や風などの影響を受けやすく、路面が荒れやすかったとされています。
また、道幅も狭く、人や馬車がすれ違うのが困難だったため、交通の円滑な流れを妨げる要因となっていました。
その他、村々から鎌倉へ向かう道なども、後世にかまくら道と呼ばれました。
元寇によって道路整備が進む
当時東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国(元)が属国だった高麗と1274年と1281年に日本へ攻め込んできた「蒙古襲来」がありました。
1268年にモンゴル帝国のフブライ=ハンの書状を添えた使節が博多に来たことで、鎌倉幕府のネットワークは博多まで延長されます。
1274年の1回目の蒙古襲来(文永の役)では鎌倉に到着するまで16日要した戦果の知らせが、1281年の弘安の役では12日で届いたそうです。
文永の役以降、鎌倉幕府が山陽道の整備に力を入れていたことがわかります。
林の中でひっそり眠る鎌倉街道
時代が新しくなると、鎌倉街道は商品や人を運ぶ道路に変わっていきます。やがて鎌倉が関東の中心地でなくなると道も本来のルートから外れて、村と村を結んだり、山や丘に沿って曲がりくねった道になっていきました。
現在、鎌倉街道として紹介されるのはのちの時代にできたものが多いようです。
また、鎌倉街道は一般の遺跡と異なり、あまり重要に思われていませんでした。そのため、宅地や道路の造成などで無くなっています。
現存していて良い状態残っているのは東京都町田市の野津田・小野路地区です。
鎌倉時代の輸送手段
陸上交通で多く使われていたのが馬です。馬を使った専門の輸送業者を馬借(ばしゃく)といいます。米俵を運ぶ際、通常は一頭の馬に二俵を積んでいました。
西日本では牛を使って荷車を引かせることが多かったようです。このように荷車を使った輸送業者を車貸(しゃしゃく)といいます。馬を使うケースもありました。